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青木繁は、1904(明治37)年8月22日、
房州富崎村字布良・小谷「喜六」(希録・喜録)方に滞在中、
親友・梅野満雄(福岡県八女郡三河村在住)に宛て、
4枚にわたる絵手紙を出状しています。
そこには、
布良・相浜・神戸・平砂浦の素晴らしさが
綿々と綴られており、また、
精力的に大作《海の幸》に取り組んでいる姿も
描かれています。
・・・・・・
絵手紙の原物は、
梅野満雄の長男・梅野隆氏が館長を務める
長野県東御市の梅野記念絵画館で所蔵しています。
添付ファイル名 | ファイルの説明/概要 | サイズ(B) |
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ul0519133944.pdf | 青木繁書簡(印刷用) | 1,644,950 |
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「其後ハ御無沙汰失礼候
モー此処に来て一ヶ月余になる、
この残暑に健康はどうか?
僕は海水浴で黒んぼーだよ、
定めて君は知つて居られるで
あらうがこゝは万葉にある「女良」
だ、すく近所に安房神社と
いふがある、官幣大社で、
天豊美命をまつつたものだ、
何しろ沖は黒潮の流を受けた
激しい崎で上古に伝はらない
人間の歴史の破片が埋められて
居たに相違ない、
漁場として有名な荒つぽい処だ、
冬になると四十里も五十里も
黒潮の流れを切つて
二月も沖に暮らして
漁するそうだよ、
西の方の浜伝ひの隣りに
相の浜といふ処がある、
詩的な名でないか、
其次ハ平沙浦(ヘイザウラ)
其次ハ伊藤のハナ、其次ハ洲の崎で
こゝは相州の三浦半島と
遥かに対して東京湾の口を
扼(ヤク)して居るのだ、
上図はアイドといふ処で
直ぐ近所だ、
好い処で僕等の海水浴場だよ、